84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その九

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その九

昭和34年9月28日、長女が生まれました。「有羽子」と名付けました。

その頃、私は女優の浜木綿子(はまゆうこ)さんが大好きで、「木綿子」と名付けたかったのですが、「浜木綿」で一つの単語なので、木綿子だけではゆうことは読めないらしく、母が古い名付けの字画の本をみて、河野には三文字の漢字が良いというので、「有羽子」になりました。

お腹に赤ちゃんができたと知った時は喜んだ夫でしたが、昭和の岸和田の男は、出産は女の仕事くらいにしか思っていませんので、全く興味がなく、生まれる日の前日は伊勢湾台風だというのに夫は麻雀で家にはいません。私は風呂敷包みに着替えを入れて、一つ隣の駅にある年配の助産婦さんがお嫁さんと二人で運営している産院に一人で行きました。

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伊勢湾台風

あらしの夜の初めての出産はとても長く、しんどかったけど、生まれた28日の朝は快晴で、無事に生まれてほっとしたのを覚えています。夫はさらにその翌日ようやく来て、「無事か」とだけ言って、へえ~って他人事でしたね。二人とも22歳ですからね。今の学生さんたちを見ると、あんなに幼かったのかと思えるので、無理ないのかも。

3~4日その産院に泊まらせていただいてから帰りましたが、家では舅も姑もとても喜んでくれてうれしかったですね。実家の母も喜んで、得意の編み物でおくるみとか作ってくれました。その頃は紙おむつなんて当然ありませんから、浴衣が必需品で、古い浴衣をほどいておしめを作りました。手縫いです。姑は明治生まれでずっと着物なので下着はおこしという腰巻でしたから、洗濯物はおこしとおしめなので、大きな布がひらひらしていましたね。

金蘭高校のモットーは女学校なので、良いお嫁さん、良いお母さんになることでしたから、得意ではなくても、家庭科の授業では浴衣を縫い、コーラスではシューベルトの子守唄を覚えました。ですから、ミシンはなかったけど、手縫いでおしめを縫い、シューベルトの歌をうたって寝かしつけました。中原淳一の絵が好きでしたから、上手ではないけど、娘の服のポケットに絵を真似てワンポイントの刺繡にしたり、未熟ながら母親になったことを楽しんでいました。

長女はよく泣いたので、涙が耳に溜まって湿疹ができたり、中耳炎になったり、思いがけないことがたくさんあって、忙しかったですねえ。

24歳で次女が生まれました。彼女は頭が小さかったので、つるんと出て来て、楽でした。

もちろん、この時も夫は麻雀中。次女が、大人になってから「岸和田愚連隊」という映画を観たそうで、冒頭で竹中直人が仲間と病院に駆け込んできて「男か?女か?」と聞くのですが、「男ですよ」と看護師さんが言った途端「よっしゃー!俺の勝ちや!」といって赤ちゃんの顔を見ることもなく出ていったシーンがあったそうで、「ああ、パパはこんな感じだな」と思ったと言っていました。

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岸和田少年愚連隊

そんなわけで、次女の名前も私が付けました。高校時代、とてもあこがれていた先輩がいたのです。美人で頭が良くて、生徒会長をしていた「いさこさん」。彼女のようになってほしいと、名付けました。この時も母が字画を見てくれて、「伊早子」となりました。

次女は生まれるときはとても楽でしたが、小児ぜんそくでしょっちゅう発作を起こしました。近くにお医者さんがいなくて、隣の町までおんぶしてよく通いました。

せっかちで、毎朝、長い髪をちゃんと結ってくれという長女に対して、次女はボーっとしていて、長女からは「グズラ」と呼ばれて怒られていました。髪も薄くて、しょっちゅう男の子と間違えられて、全く対照的な二人で面白かったです。

最近タローは「トイレに行きたい」と、呼びに来るようになりました。凄い進歩です。

夜中で私が寝ていても起こします。認知症かと思いましたが、おしっこは外でしかしたことがないのに、おもらしした自分にパニックになっていたのかもしれません。ようやく、家の中のトイレの場所がわかって、出そうになれば呼べばよいのだと安心したようです。年寄りはお互い様。また少し近づけた感じ。良い相棒です💛

さーて、今日は久々に娘との夕飯。

長く外食をしていないので、今日はお寿司でも買いに行きます。

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