コラム

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その九

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その九

昭和34年9月28日、長女が生まれました。「有羽子」と名付けました。 その頃、私は女優の浜木綿子(はまゆうこ)さんが大好きで、「木綿子」と名付けたかったのですが、「浜木綿」で一つの単語なので、木綿子だけではゆうことは読めないらしく、母が古い名付けの字画の本をみて、河野には三文字の漢字が良いというので、「有羽子」になりました。

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その九

昭和34年9月28日、長女が生まれました。「有羽子」と名付けました。 その頃、私は女優の浜木綿子(はまゆうこ)さんが大好きで、「木綿子」と名付けたかったのですが、「浜木綿」で一つの単語なので、木綿子だけではゆうことは読めないらしく、母が古い名付けの字画の本をみて、河野には三文字の漢字が良いというので、「有羽子」になりました。

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その八

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その八

2月に入り、またコロナ感染者が増えてきたので外出を控え、月に一度東京からきてくれる次女とは今年になってから会っていませんでしたが、今週末久しぶりに来てくれることになり、今回は何を食べようかとそればかり考えています♪ 一人っ子ですし、両親とは離れて暮らすことが多かったので、子供の頃から一人は慣れているつもりでしたが、年のせいか、時々このまま一人で倒れたら…と不安になり、来てくれると聞くと心強いです。

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その八

2月に入り、またコロナ感染者が増えてきたので外出を控え、月に一度東京からきてくれる次女とは今年になってから会っていませんでしたが、今週末久しぶりに来てくれることになり、今回は何を食べようかとそればかり考えています♪ 一人っ子ですし、両親とは離れて暮らすことが多かったので、子供の頃から一人は慣れているつもりでしたが、年のせいか、時々このまま一人で倒れたら…と不安になり、来てくれると聞くと心強いです。

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その七

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その七

結婚式は昭和32年、夫が20歳、私は19歳で、岸和田の神社で挙式しました。仲人さんに衣装をお借りして、夫の家族と私の母だけの小さな結婚式でしたけど、なんだかうれしかったですよ。 そして、いよいよ結婚生活が始まります。 お勤めと珠算塾の二足のわらじでバーバリーのコートを着て、収入も決して低くない夫でしたが、家に行ってびっくり!!

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その七

結婚式は昭和32年、夫が20歳、私は19歳で、岸和田の神社で挙式しました。仲人さんに衣装をお借りして、夫の家族と私の母だけの小さな結婚式でしたけど、なんだかうれしかったですよ。 そして、いよいよ結婚生活が始まります。 お勤めと珠算塾の二足のわらじでバーバリーのコートを着て、収入も決して低くない夫でしたが、家に行ってびっくり!!

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その六

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その六

中学3年生の終わりに父が新しい家を建てて初めて自分の部屋ができたので、うれしくて毎日がとても楽しかったです。でも、その喜びは長くは続かず、2年生の3月、父が47歳で、喉頭結核で亡くなりました。半年前からほとんど寝たきりの状態だったので何となく察してはいましたが、母と兄弟を集めると、「世話になったけど、いよいよ力尽きた。後をよろしく頼む」といって、逝きました。昔の人はしっかりしていましたね。

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その六

中学3年生の終わりに父が新しい家を建てて初めて自分の部屋ができたので、うれしくて毎日がとても楽しかったです。でも、その喜びは長くは続かず、2年生の3月、父が47歳で、喉頭結核で亡くなりました。半年前からほとんど寝たきりの状態だったので何となく察してはいましたが、母と兄弟を集めると、「世話になったけど、いよいよ力尽きた。後をよろしく頼む」といって、逝きました。昔の人はしっかりしていましたね。

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その五

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その五

今日は父との思い出。 段々戦争が激しくなってきて、父も陸軍に入隊し、母とおはぎをつくって差し入れたことがありました。お砂糖がなかったので、塩で作ったのを覚えています。 大阪はB29に爆撃されて、梅田は焼け野原。私たちは防空頭巾をかぶって裸足で逃げました。戦況が悪化して大阪にはいられなくなり、女中さんの実家のある徳島に疎開。それからは宮崎、横浜、沼津、埼玉、大分を転々とします

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その五

今日は父との思い出。 段々戦争が激しくなってきて、父も陸軍に入隊し、母とおはぎをつくって差し入れたことがありました。お砂糖がなかったので、塩で作ったのを覚えています。 大阪はB29に爆撃されて、梅田は焼け野原。私たちは防空頭巾をかぶって裸足で逃げました。戦況が悪化して大阪にはいられなくなり、女中さんの実家のある徳島に疎開。それからは宮崎、横浜、沼津、埼玉、大分を転々とします

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その四

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その四

大阪の京町堀というところで生まれたので「京子」と名付けられました。 東京で暮らしていた私の祖父母は関東大震災で家をなくし、神戸に移住。それから大阪の京町堀で開業し、お米の袋などを扱う製袋の仕事を営んでいました。 私が生まれた年に祖父は他界。番頭さんだった父が養子になって跡を継ぎます。まだ女学生だった母は、一回りも上の番頭さんだった父と恋に落ち、結婚。 母は17歳で妊娠したのですが、現役の女学生だったので、妊娠したことが恥ずかしくて、あろうことか海に行って私を堕ろそうとしたのです。そこで倒れてしまい、見つけてくださった方がリヤカーで病院に運んでくださり、まだ7か月に入ったばかりの私が生まれました。当然未熟児ですから小さくて生きていることが奇跡です。この頃は裕福だったので、当時は珍しかった保育器のある病院で出産して、何とか無事に生まれました。今でも、母のことを考えると怒りがこみあげますが、この年まで元気に生きられたので、良しとします。 母では危ないと思ったのか、祖母に預けられ、すくすく育ちました。というか、父は身長が180cmほどもあり男前だったので、母はもちろんですが、祖母がとても心配して、父の出張には必ず一緒に行かせたといいます。モテるので浮気の心配です。それで、私の世話は祖母がするから、あんたは旦那についていきなさいということだったようです。 父は出張に出ると2か月ほど帰りません。東京に出張に出ると帝国ホテルに2か月滞在。その頃は、お世話係のような方が各部屋についていたそうで、あんなに注意していたのに、その女性が父の子供を身ごもったことがありました。祖母は、母が私一人しか産めなかったこともあり、先方が男の子を生んだと聞いて、「引き取ってうちの籍に入れなさい」と言ったそうです。母は、その通りにして子供をもらいに行きましたが、残念ながら体が弱く、亡くなったと聞きました。父は芸者遊びも好きで、なんと母も一緒につれて行きました。母は、きれいな芸者さんに囲まれている夫を見て、「これはまずい!」と思ったそうです。この人たちに負けてはいけない!と、三味線、お琴、お習字を習い、晩年は北新地のママさんたちに三味線やお習字を教えて、お小遣いになっていましたから、結局父に助けられたのかもしれません。 私が6歳の時、京町堀から梅田に引っ越し、曽根崎小学校に通いました。時代劇「必殺仕事人」で「旅愁」という歌をうたっていた西崎みどりさんのお母さんが、当時有名な西崎流の日本舞踊家で、その人に日本舞踊を習いに、梅田新道から堂島まで人力車で通っていました。それも、芸者さんにあこがれた母の名残だったのかも。私が踊ったのは、ねずみや猫の踊りでしたけど…(笑)

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その四

大阪の京町堀というところで生まれたので「京子」と名付けられました。 東京で暮らしていた私の祖父母は関東大震災で家をなくし、神戸に移住。それから大阪の京町堀で開業し、お米の袋などを扱う製袋の仕事を営んでいました。 私が生まれた年に祖父は他界。番頭さんだった父が養子になって跡を継ぎます。まだ女学生だった母は、一回りも上の番頭さんだった父と恋に落ち、結婚。 母は17歳で妊娠したのですが、現役の女学生だったので、妊娠したことが恥ずかしくて、あろうことか海に行って私を堕ろそうとしたのです。そこで倒れてしまい、見つけてくださった方がリヤカーで病院に運んでくださり、まだ7か月に入ったばかりの私が生まれました。当然未熟児ですから小さくて生きていることが奇跡です。この頃は裕福だったので、当時は珍しかった保育器のある病院で出産して、何とか無事に生まれました。今でも、母のことを考えると怒りがこみあげますが、この年まで元気に生きられたので、良しとします。 母では危ないと思ったのか、祖母に預けられ、すくすく育ちました。というか、父は身長が180cmほどもあり男前だったので、母はもちろんですが、祖母がとても心配して、父の出張には必ず一緒に行かせたといいます。モテるので浮気の心配です。それで、私の世話は祖母がするから、あんたは旦那についていきなさいということだったようです。 父は出張に出ると2か月ほど帰りません。東京に出張に出ると帝国ホテルに2か月滞在。その頃は、お世話係のような方が各部屋についていたそうで、あんなに注意していたのに、その女性が父の子供を身ごもったことがありました。祖母は、母が私一人しか産めなかったこともあり、先方が男の子を生んだと聞いて、「引き取ってうちの籍に入れなさい」と言ったそうです。母は、その通りにして子供をもらいに行きましたが、残念ながら体が弱く、亡くなったと聞きました。父は芸者遊びも好きで、なんと母も一緒につれて行きました。母は、きれいな芸者さんに囲まれている夫を見て、「これはまずい!」と思ったそうです。この人たちに負けてはいけない!と、三味線、お琴、お習字を習い、晩年は北新地のママさんたちに三味線やお習字を教えて、お小遣いになっていましたから、結局父に助けられたのかもしれません。 私が6歳の時、京町堀から梅田に引っ越し、曽根崎小学校に通いました。時代劇「必殺仕事人」で「旅愁」という歌をうたっていた西崎みどりさんのお母さんが、当時有名な西崎流の日本舞踊家で、その人に日本舞踊を習いに、梅田新道から堂島まで人力車で通っていました。それも、芸者さんにあこがれた母の名残だったのかも。私が踊ったのは、ねずみや猫の踊りでしたけど…(笑)