
84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その九
昭和34年9月28日、長女が生まれました。「有羽子」と名付けました。
その頃、私は女優の浜木綿子(はまゆうこ)さんが大好きで、「木綿子」と名付けたかったのですが、「浜木綿」で一つの単語なので、木綿子だけではゆうことは読めないらしく、母が古い名付けの字画の本をみて、河野には三文字の漢字が良いというので、「有羽子」になりました。
昭和34年9月28日、長女が生まれました。「有羽子」と名付けました。
その頃、私は女優の浜木綿子(はまゆうこ)さんが大好きで、「木綿子」と名付けたかったのですが、「浜木綿」で一つの単語なので、木綿子だけではゆうことは読めないらしく、母が古い名付けの字画の本をみて、河野には三文字の漢字が良いというので、「有羽子」になりました。
2月に入り、またコロナ感染者が増えてきたので外出を控え、月に一度東京からきてくれる次女とは今年になってから会っていませんでしたが、今週末久しぶりに来てくれることになり、今回は何を食べようかとそればかり考えています♪
一人っ子ですし、両親とは離れて暮らすことが多かったので、子供の頃から一人は慣れているつもりでしたが、年のせいか、時々このまま一人で倒れたら…と不安になり、来てくれると聞くと心強いです。
結婚式は昭和32年、夫が20歳、私は19歳で、岸和田の神社で挙式しました。仲人さんに衣装をお借りして、夫の家族と私の母だけの小さな結婚式でしたけど、なんだかうれしかったですよ。
そして、いよいよ結婚生活が始まります。
お勤めと珠算塾の二足のわらじでバーバリーのコートを着て、収入も決して低くない夫でしたが、家に行ってびっくり!!
今日は父との思い出。
段々戦争が激しくなってきて、父も陸軍に入隊し、母とおはぎをつくって差し入れたことがありました。お砂糖がなかったので、塩で作ったのを覚えています。
大阪はB29に爆撃されて、梅田は焼け野原。私たちは防空頭巾をかぶって裸足で逃げました。戦況が悪化して大阪にはいられなくなり、女中さんの実家のある徳島に疎開。それからは宮崎、横浜、沼津、埼玉、大分を転々とします
大阪の京町堀というところで生まれたので「京子」と名付けられました。
東京で暮らしていた私の祖父母は関東大震災で家をなくし、神戸に移住。それから大阪の京町堀で開業し、お米の袋などを扱う製袋の仕事を営んでいました。
私が生まれた年に祖父は他界。番頭さんだった父が養子になって跡を継ぎます。まだ女学生だった母は、一回りも上の番頭さんだった父と恋に落ち、結婚。
母は17歳で妊娠したのですが、現役の女学生だったので、妊娠したことが恥ずかしくて、あろうことか海に行って私を堕ろそうとしたのです。そこで倒れてしまい、見つけてくださった方がリヤカーで病院に運んでくださり、まだ7か月に入ったばかりの私が生まれました。当然未熟児ですから小さくて生きていることが奇跡です。この頃は裕福だったので、当時は珍しかった保育器のある病院で出産して、何とか無事に生まれました。今でも、母のことを考えると怒りがこみあげますが、この年まで元気に生きられたので、良しとします。
母では危ないと思ったのか、祖母に預けられ、すくすく育ちました。というか、父は身長が180cmほどもあり男前だったので、母はもちろんですが、祖母がとても心配して、父の出張には必ず一緒に行かせたといいます。モテるので浮気の心配です。それで、私の世話は祖母がするから、あんたは旦那についていきなさいということだったようです。
父は出張に出ると2か月ほど帰りません。東京に出張に出ると帝国ホテルに2か月滞在。その頃は、お世話係のような方が各部屋についていたそうで、あんなに注意していたのに、その女性が父の子供を身ごもったことがありました。祖母は、母が私一人しか産めなかったこともあり、先方が男の子を生んだと聞いて、「引き取ってうちの籍に入れなさい」と言ったそうです。母は、その通りにして子供をもらいに行きましたが、残念ながら体が弱く、亡くなったと聞きました。父は芸者遊びも好きで、なんと母も一緒につれて行きました。母は、きれいな芸者さんに囲まれている夫を見て、「これはまずい!」と思ったそうです。この人たちに負けてはいけない!と、三味線、お琴、お習字を習い、晩年は北新地のママさんたちに三味線やお習字を教えて、お小遣いになっていましたから、結局父に助けられたのかもしれません。
私が6歳の時、京町堀から梅田に引っ越し、曽根崎小学校に通いました。時代劇「必殺仕事人」で「旅愁」という歌をうたっていた西崎みどりさんのお母さんが、当時有名な西崎流の日本舞踊家で、その人に日本舞踊を習いに、梅田新道から堂島まで人力車で通っていました。それも、芸者さんにあこがれた母の名残だったのかも。私が踊ったのは、ねずみや猫の踊りでしたけど…(笑)
もう30年近く前に亡くなってしまったけど、私は美空ひばりちゃんの大ファンです。
同い年なので、昭和の激動の時代をずっと一緒に生きてきた感じ。どんなにしんどくても、彼女の歌にいつも励まされて、一緒に歌っていました。
けれど、ずっと大家族だったので、ひばりちゃんが生きている頃は3人の子供と、認知症の舅や姑がいて、仕事もしていたので、一番忙しい時で映画に行く時間なんかありませんでしたから、こんな年になって見られなかった頃の映画や音楽を聴けるのはとてもありがたい。YouTubeは、素晴らしい!!
今日は、ひばりちゃんと林与一の映画を観ました。ひばりちゃんは小さくて美人でもないのに、日本舞踊もきちんと身につけているから、からだの動きがしなやかで美しい。先輩の女優さんたちからはずいぶんいじめられたらしいけど、彼女の実力には誰もかなわないのが小気味良くし、江戸弁の切れのあるセリフもかっこよくて、何度聞いても飽きません。
いなくなって30年も経つけど、彼女の歌は、時を超えて若かった頃の元気を取り戻すエネルギーを与えてくれます。
夕飯は5時。タローの正確な腹時計で、夕飯を知らされます。
今夜は冷凍していた薄切りお肉を朝から戻しておいたので、少し焼いて大根おろしとポン酢で食べます。1枚150円の熊本牛を3枚。すごく柔らかくて脂が程よくのっているので、ポン酢がとても良く合います。
お正月の生麩もあったので、おすましをつくったら、ご飯が大好きなタローも最後に〆の雑炊が食べられて大喜び。
私はおやつにおせんべいを食べ、タローもささみのジャーキーと歯磨きガムを食べたら、6時。タローの手が私の足を抑え、ベッドに行こう!と誘います。
仕方ないので、戸締りをして寝室へ。
遠くの娘より近くのペット… タローは夜中にトイレに立つとついてきて、ドアの前で待っていてくれます。
万が一廊下で倒れても、タローは電話を掛けることも、玄関を開けて人を呼びに行くこともできないけど、そばにいてくれるだけでも心強い。
ただ、最近よく遠吠えをするようになり、ご近所に迷惑をかけていないか心配です。タローも年をとって、不安なのかしら。夫が去勢を拒んだので、タローは子孫を残せるのに、生涯独身であることを嘆いているのかも。
今日もタローと一日無事に生きられました。神様ありがとう。おやすみなさい。
冬は、朝タローが散歩に出かけた後、5時半にカーテンを開けるとまだ真っ暗でお月さんが煌々と輝いています。
今日の午後は、リハビリの先生が来る日なので、朝食を終えたらタローを窓辺の桟につないで、掃除機をかけて、ソファのカバーを取り換えて先生をお迎えする準備をします。
一人暮らしは、自分の足で歩けないとはじまらないので、夫が亡くなった後、思い切って膝の手術を受けました。それから1年半経ちますが、痛みはあったりなかったり… 調子もよかったり良くなかったり… まあ80年生きましたから、こんなもんでしょう。
でも、じっとしているとどんどん固まってしまうし、80歳を過ぎても筋肉はつくれるらしいので、運動は欠かせません。自分一人ではなかなかできないけど、2週間に1回、こうしてリハビリの先生が自宅訪問して運動させてくださるのは本当にありがたいです。
世間話もできるし、人と会うからお化粧もするし、着るものにも気を遣うので、人と会う時間は大事ですね。相手の方にはこんなおばあちゃんで申し訳ない気もするけれど。
10時半になると、お昼ご飯の準備です。食べることは大好きなので、毎日何を食べようかと考えているときが一番楽しいです。
今日は、豚肉とキャベツ、玉ねぎもあるので、焼きそばにします。
そばはほぐさないで、袋から出して四角く固まったまま、フライパンの上に乗せて、フライ返しでぎゅっと押し付けて焦げ目をつけます。それがコツ。ソースよりは塩焼きそばが好き。粉末のガーリックもたっぷりかけます。
11時に食べられるように作るけど、食べるのに10分もかかりません。「ゆっくり食べなさい」と娘に叱られるけど、熱いうちに食べた方がおいしいに決まっているので、ハイハイ!と言っておきます。
宅急便が届きました。1ヵ月に1回、東京から食料が届きます。普段は近所のスーパーで買いますが、1ヵ月に5千円だけ贅沢をします。お魚やお肉、ジャム、ドレッシング、珍しい野菜やフルーツなど、その時の旬のものなどをメトロマーケットのお兄ちゃんたちが選んで送ってくれます。届いたらすぐに冷凍して、ちょっとずつ娘が来たときに一緒に食べます。
いつもはノンアルコールビールだけど、娘が来たときは、このおいしいお魚やお肉を本物のビールやワインでいただきます。
リハビリが終わると、少し昼寝。タローはずーっと昼寝。おやすみなさい。
2年前に夫が亡くなってから、一人で暮らしています。
80代になって、はじめての一人暮らし。不安はいっぱいありますが、夫が遺した老犬・タローとの気楽な日々です。夫の両親を看取り、自分の親を看取り、子供たちは成長し、孫も結婚して曾孫までできて、ついに夫も看取りました。80余年ずーっと誰かの面倒を見てきたので、誰もいなくなったことが寂しいようなほっとするような…。自分だけのために時間を使うことに戸惑いつつも、毎日大音量で大好きな美空ひばりちゃんの歌を聴いたり、YouTubeで昔のひばりちゃんの映画を観て過ごしています。
私の一日は朝5時から始まります。
5時に起きて、老犬を散歩に連れて行ってくれるペットシッターのお兄ちゃんのお迎えを待ちます。5時半から30分の散歩が終わると、タローと一緒に朝食。
朝はパンとフルーツを少しとカフェ・オレ。
今朝のパンは息子が送ってくれたフォカッチャにしました。一つはブルーベリーのジャムを付け、もう一つはチーズをのせて焼きました。フルーツは柿。大きな柿で大味かと思いきや、なんとも繊細な上品な甘さにうっとり。
タローは自分のカリカリと缶詰を食べ終えたら、私のパンをおねだりします。
夫が贅沢に育ててしまい、スーパーで売っている食パンは食べません。
犬の健康を考えると塩分も糖分も多めの味の濃いものはあまり良くないと常々娘に叱られるけど、自分だけ贅沢をしているような後ろめたさもあり、ついついあげちゃいます(^^;
食事が済むと洗濯。
昔はどの家にも庭に、屋根にも届く高さの物干しがありました。先っぽがY字の金具が付いた長い棒で、洗濯物を干した竿を上げて一番上のフックに引っ掛けます。天高く洗濯物が風に揺れるのが大好きでした。昭和30年代に、三種の神器といって、冷蔵庫と白黒テレビと洗濯機がうちにもやってきました。中でも洗濯機が来たときは本当にうれしかったです。でも、未だに柔軟剤は時間を図って自分で入れに行きます。娘から、「柔軟剤を入れるところがあるでしょ!洗剤も柔軟剤も最初に入れれば、ちゃんとタイミングを計って自動的に洗濯してくれるのよ!」と何度いわれても、自分で入れます。機械なんか、信用できません。
朝が早いので、洗濯が終わったら1回目のお昼寝です。もちろんタローも一緒。タローはソファで、私はマッサージをしながら…おやすみなさい。