84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その七

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その七

結婚式は昭和32年、夫が20歳、私は19歳で、岸和田の神社で挙式しました。仲人さんに衣装をお借りして、夫の家族と私の母だけの小さな結婚式でしたけど、なんだかうれしかったですよ。

そして、いよいよ結婚生活が始まります。

お勤めと珠算塾の二足のわらじでバーバリーのコートを着て、収入も決して低くない夫でしたが、家に行ってびっくり!!なんという貧乏な暮らしなのでしょう!!戦後はどこも大変でしたから、私は仕方ないと思って覚悟を決めましたが、私を育ててくれた祖母は一度ご挨拶に来て以来、二度と来ることはありませんでした。

戦争を経験するということは、与えられた試練の中でどう生き抜くかという訓練をさせられているようなことだったのかもしれません。裕福な生活も経験してはいましたが、戦争を思えば、屋根があり食べるものや着るものがあることだけで十分幸せでした。ですが、古くて暗いトイレはもちろん汲み取り式で、トタン屋根の部分があって、蜘蛛の巣が張っていました。屋根裏にはネズミも走っていて怖かったです。

だけど良かったことは、家も庭もやたら広かったのです。まず、玄関口は2間の引き戸になっていて、夏には海水浴のお客さんを対象としたうどん屋さんをしていてお店仕様になっていました。

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昭和32年の松ノ浜(泉大津)の海水浴場

正面に12畳ほどの今でいうリビング(家族団らんの部屋)がありました。わたしたち夫婦の部屋はその奥にある4畳半。その横の台所を挟んで舅の個室(6畳)があり、中で隣の姑と小姑(夫の姉/未婚)の部屋(6畳)につながっています。台所は土間で、薪で焚くお風呂が隣接。五右衛門風呂です。庭にはビワとイチジクの木が植えてあり、背の高い物干しと庭の手入れ道具などが入った物置、そして金魚の池がありました。

舅は消防署員でしたが、脊髄の病気を患ってからほぼボランティアの日々。お風呂をたく薪割りが日課でした。姑とは再婚。夫は姑の40歳の子供だったので溺愛されていて、姑からの最初の言葉は、「京ちゃん、ヨッチャンは女の子にモテるから気を付けなさい」でした。その時、なんと舅には、その貧乏暮らしにもかかわらず愛人がいたそうで、私がお嫁に行ってから別れたらしく、姑は「京子ちゃんは幸運の女神」だと言ってくれました(笑)。

結婚を機に、夫は恩師の塾のお手伝いを卒業し、自宅で珠算塾を開業しました。この頃は舅の部屋に遠い親戚の若い男の子も居候をしていたので、私を入れて6人家族。家の家賃がいくらだったかは知りませんが、姑から「家賃として1万円入れてください」と言われ、夫の給料は9000円でしたので、私も働きに出て、5000円のお給料をもらい、そうして1万円を捻出しました。

珠算塾での収入はほぼ夫の洋服に消えていきましたが、電化製品もそろっていない時代ですから、家事にことごとく時間がかかり、嘆いている暇などなかったので、どうやって食べることを充実させるかばかり考えていたような気がします。

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