84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その四

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その四

大阪の京町堀というところで生まれたので「京子」と名付けられました。

東京で暮らしていた私の祖父母は関東大震災で家をなくし、神戸に移住。それから大阪の京町堀で開業し、お米の袋などを扱う製袋の仕事を営んでいました。

私が生まれた年に祖父は他界。番頭さんだった父が養子になって跡を継ぎます。まだ女学生だった母は、一回りも上の番頭さんだった父と恋に落ち、結婚。

母は17歳で妊娠したのですが、現役の女学生だったので、妊娠したことが恥ずかしくて、あろうことか海に行って私を堕ろそうとしたのです。そこで倒れてしまい、見つけてくださった方がリヤカーで病院に運んでくださり、まだ7か月に入ったばかりの私が生まれました。当然未熟児ですから小さくて生きていることが奇跡です。この頃は裕福だったので、当時は珍しかった保育器のある病院で出産して、何とか無事に生まれました。今でも、母のことを考えると怒りがこみあげますが、この年まで元気に生きられたので、良しとします。

母では危ないと思ったのか、祖母に預けられ、すくすく育ちました。というか、父は身長が180cmほどもあり男前だったので、母はもちろんですが、祖母がとても心配して、父の出張には必ず一緒に行かせたといいます。モテるので浮気の心配です。それで、私の世話は祖母がするから、あんたは旦那についていきなさいということだったようです。

父は出張に出ると2か月ほど帰りません。東京に出張に出ると帝国ホテルに2か月滞在。その頃は、お世話係のような方が各部屋についていたそうで、あんなに注意していたのに、その女性が父の子供を身ごもったことがありました。祖母は、母が私一人しか産めなかったこともあり、先方が男の子を生んだと聞いて、「引き取ってうちの籍に入れなさい」と言ったそうです。母は、その通りにして子供をもらいに行きましたが、残念ながら体が弱く、亡くなったと聞きました。父は芸者遊びも好きで、なんと母も一緒につれて行きました。母は、きれいな芸者さんに囲まれている夫を見て、「これはまずい!」と思ったそうです。この人たちに負けてはいけない!と、三味線、お琴、お習字を習い、晩年は北新地のママさんたちに三味線やお習字を教えて、お小遣いになっていましたから、結局父に助けられたのかもしれません。

私が6歳の時、京町堀から梅田に引っ越し、曽根崎小学校に通いました。時代劇「必殺仕事人」で「旅愁」という歌をうたっていた西崎みどりさんのお母さんが、当時有名な西崎流の日本舞踊家で、その人に日本舞踊を習いに、梅田新道から堂島まで人力車で通っていました。それも、芸者さんにあこがれた母の名残だったのかも。私が踊ったのは、ねずみや猫の踊りでしたけど…(笑)

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