84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その五

84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その五

今日は父との思い出。

段々戦争が激しくなってきて、父も陸軍に入隊し、母とおはぎをつくって差し入れたことがありました。お砂糖がなかったので、塩で作ったのを覚えています。

大阪はB29に爆撃されて、梅田は焼け野原。私たちは防空頭巾をかぶって裸足で逃げました。戦況が悪化して大阪にはいられなくなり、女中さんの実家のある徳島に疎開。それからは宮崎、横浜、沼津、埼玉、大分を転々とします。

父と母はその間横浜の親戚を頼って、海苔の卸しを手伝い、私は夜遅くまで一人で過ごしました。靴もまだなくて、草履やわらじを履き、肌着も祖母が父や母のを縫い合わせてつくってくれたものを身につけていました。教科書も鉛筆もないので、学校などまともに行けるはずもなく、食べるものもないので、お芋の蔓を食べたこともあります。「火垂るの墓」に出てくるような意地悪な家では、お蚕の部屋で寝かされたこともありますし、一人で真っ暗なトンネルを抜けて、両親を迎えに行ったこともあります。今なら、危ないとか、寂しいとか、怖いとか、色々思うのでしょうけど、そんなことより、生きることに精いっぱいでしたからね、前しか向いていなかったと思います。

小学校高学年になる頃に、ようやく世の中が落ち着いたので、父が大阪に戻り、会社を作る準備をするというので、一緒に戻り高石小学校に転校しました。それから父が「大阪製袋」を設立して復活します。小学校を卒業するころには、担任の先生から「勉強もできるし、お家も裕福だから」と私立の学校を勧められて「金蘭会中学校」に進学します。あまりにもたくさんのことを経験した、目まぐるしい小学生時代でした。

中学時代は、それはそれは楽しく過ごしました。父がよく観劇に連れて行ってくれて、はじめて観たのは「四谷怪談」。怖かったけど、面白かった。怖いシーンは目を開けられなくて、でも指の間から覗き見る感じ。観劇の後は、道頓堀で「かき船」や、「ハマムラ」、「はり重」で食事をして、「とよすのあられ」でお土産を買って、ひばりちゃんのレコードを買ってもらいました。最初に買ってもらったレコードは「リンゴ追分」。その頃、本屋さんでは貸本が1泊5円(今のお金で50円~100円くらい?)で、28巻の「銭形平次」を一気に読んで、江戸弁にあこがれていました。

懐かしい… 頭をフル回転させたらおなかがすいたので、おやつタイムにします。

今日は、仙太郎のおはぎにしようかな。今はもうなくなってしまったけど、ハマムラの肉団子が絶品でした。今夜は中華にします。

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